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  • 2019. 4. 24
  • D-65

 

スポーツソウルドットコムに日本の“リアリティ写真”を提供しているフォトグラファーのゴン・チョル氏が、自身の作品集の発刊に先だって独占インタビューを行った。

 

[スポーツソウルドットコム|編集チーム] 新宿歌舞伎町を舞台にカメラマンの情熱を燃やしている一人の韓国人がいる。いつのまにか彼が歌舞伎町でその魂を注いだ時間も16年が経った。
彼の写真集<歌舞伎町「スナイパー」が見た16年>(権徹/写真・文、発売・発行:扶桑社)の発刊を控えている中、その真率な物語を聴いてみた。


Q: 準備している出版物があると聞いた。
A:出版準備は1年前からしていた。3冊の本を発刊することで出版社と話し合い、ほぼ着手段階まできていた。その1冊目が歌舞伎町の写真集で、2冊目は自身の自叙伝、3冊目が大久保の韓流歴史。こうして3冊が進行段階まで行っていたが、昨年8月に李 明博(イ・ミョンバク)大統領が独島を訪問したため、全てが水の泡になってしまった。
1冊目の<歌舞伎町「スナイパー」が見た16年>は、国境の乗り越えた一つの町を描いた作品であるので、大きな障害はないと考えた。出版社からは2012年10月にOKをもらった。他<自叙伝>と<韓流歴史>は、<歌舞伎町「スナイパー」が見た16年>の興行結果によって制作可否が決まると思っている。そのため<歌舞伎町>は自分にとってとても重要な写真集である。


Q: <歌舞伎町「スナイパー」が見た16年>について
A:自分が思う“歌舞伎町”は、生きることに対して欲望らが共存する戦の場だと思っている。ここには規模は小さいかもしれないが、約2万人という理解関係者たちがともに生きている。
暴力があれば、エロチックなこともある。それに銃やナイフなどの凶器事件、麻薬事件など。互いが生きるために熾烈に戦い、込み入る姿はまるで戦を見ているようだ。こんな人々が生きる模様を16年間私のジャーナリズム、私の価値観で投影した。そしてその一枚一枚が集まって<歌舞伎町>になったのだ。多少はショッキングな部分もあるが、歌舞伎町だからこそ見られる情感のある場面も相当凝縮している。


Q:リアルなショットが撮れる秘訣があれば?
A:一日の仕事を始める前に、曜日別に決めたテーマに合わせてカメラを用意して出かけている。平日はホームレスを主に撮って、金曜と週末には飲み屋とか街で起こるさまざまなエピソードを撮ろうとしている。それから16年間も歌舞伎町の隅々まで行っているので、警察のサイレンの音が聞こえてきたら、誰より早くその現場に駆けつける自信がある。
リアルで特別な写真は、警察が現場に来る前に撮らなければならない。そのため体力管理を徹底的している。海兵隊時代からやってきた一つの習慣だ。

 

フォトグラファーのゴン・チョル氏は、16年間を歌舞伎町で“リアル”を撮っている。

 

Q:カメラマン人生を歌舞伎町とともに始めたきっかけは?
A:1994年に写真を学ぶ目的で来日し、1996年に日本写真芸術専門学校に入学した。当時近所が歌舞伎町だったので、自然に歌舞伎町をテーマにした写真を撮り始めた。写真学校の1年生の時、帰り道でヤクザと警察らがもみ合うところをたまたま見かけたが、その姿があまりにも衝撃的ですごく怖かった。でもカメラマンを目指して日本にまで来た自分が、その恐怖のせいで写真を撮れないとダメだと思って、気持ちを入れ替えて歌舞伎町へ行って、そういう場面を捉えてきた。それがもう16年も経ったわけだ。


Q:自分自身の哲学があれば?
A:私は権力が嫌いだ。そして組織に属しているのも苦手だ。もし私がどこかに所属すると、自分の価値観やジャーナリズムが偏向されがちな写真になってしまう可能生があると考えたので、私はいつも一人でやってきた。
これは、私にとって憧れの対象であり師匠でもある樋口健二さんの影響もある。樋口健二さんは、日本が原発を建てる時から反対してきた方だ。彼は自分を“孤独な狼”と表現する人だった。
誰にも注目されなかった彼の哲学やカリスマを憧憬してきた。日本に定着して私はずっと貧しい生活をしていた。外で寝たりホームレスさんにパンを分けてもらったりもする最低のところまで経験した。そんな注目されない世界の中心にいる方々が私にとっては作品につなげる素材となるのだ。
歌舞伎町、ウトロ地区、枝川朝鮮学校、中国の地震、延坪島事件、3.11地震などはそうして出てきた作品である。


Q:これまでの取材歴史で最も記憶に残るエピソードは?
A:どれも私にとっては大事なエピソードであるが、その中で一番記憶に残るのは、中国の四川大地震だ。それは当時、中国政府から許可をもらった公開された場所以外は外部の人間の出入りが厳しく、取材ができない状況だった。撮影が可能だったのが、地震が起こった中央地域だったが、そこにはメディアが入れないところだった。でも立ち入り禁止だからって取材ができなければ、ジャーナリストとしてのプライドがかかっていることだと思ったので、リュックを最低限にして必要なだけの食料を用意し、地域住民のふりをしながらがむしゃらに現場へ行った。

中で初めて会った人はチョンリという子供だった。崩れた建物の中で用便しているところや生活している姿を捉えた。二人目は、ホンラン姉妹だ。形もない家で本を読んだり家族と住む姿を撮った。そして3人目がリュセという子供だ。彼は児童病院で初めて会ったが、その子を撮っているところで私は、つい泣いてしまった。リュセは建物の残害に敷かれて両足を失った子だ。激痛で何度も失神しながらも奇跡的に命を戻したが、彼の母親に足を失ってしまった状況を聞いているところ、目頭が赤くなってきた。それで私は、今度来る時はリュセの義足を用意してくると約束して、日本に帰って募金を行ったりカメラを売ったりして義足を買って、その一年後にリュセに渡した。その時彼の表情は今でも忘れられない。本当に嬉しかった。


Q:最後に、自分が考える韓流とは?
A:韓流は、そもそも歌舞伎町から始まった。歌舞伎町が“韓流の聖地”だと思っている。その昔、在日2世の資産家たちが歌舞伎町にビル、土地などの不動産、事業なとを営んできた。

 

 “コリアタウン”は、1990年代後半には犬肉を売る店、または売春が盛行していて、街のイメージ自体がよくないところだった。そんな街が2002年韓日ワールドカップを迎えながら“コリアタウン”としての形をととのえはじめたのだ。
そんな中、石原都知事の不法滞在の浄化政策により、主に歌舞伎町が中心となっている商圏が大久保街へ方向が変わった。そして2004年にドラマ「冬のソナタ」を通じて、韓流が爆発した。でもそれも1~2年で冷め、2008年に“チャン・グンソク”のおかげで第2の韓流が始まったわけだ。
その後、飲食店の店員、呼び込みなどに“イケメン”という特性ができて、コリアタウンにいけばイケメンがいるというイメージができたのだ。
2011年の地震の以降、韓流は頂点をなしたと思っている。当時心苦しかった時間を日本の韓流ファンは、チャン・グンソクのような韓流スターを通じて癒されたと思った。それが2011年から2012年の夏までで、今は落ち着いているところだ。私が日本にきた1996年に比べたら韓流の影響力の差はかなり大きい。このような韓流は、10年間ごとにその程度が大きくなったり小さくなったりする。もしコリアタウン内に文化や芸術的な部分が補強されたら、韓流は再びやってくると思っている。
 

 

権 徹(ゴン・チョル)
1967年韓国生まれ。大学在学中の1988年に休学して韓国海兵隊に入隊。大学卒業後の1994年に来日、日本写真芸術専門学校に入学、報道写真家の樋口健二氏に師事する。歌舞伎町取材をライフワークとして、ほぼ毎日3万歩以上歩き、16年間にわたって撮り続けている。その他、北朝鮮脱北者、日本・韓国の元ハンセン病患者、原発、在日朝鮮人、米軍基地、韓流ブームなどの取材も並行して行う。『DAYS JAPAN』『FRIDAY』『FLASH』などの雑誌をはじめ幅広く活躍中。著書に『歌舞伎町のこころちゃん』(講談社)など。http://kwonchoul.com/

 

 

◆<歌舞伎町「スナイパー」が見た16年> 発刊記念会の記事はこちらをクリック

 

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